離婚するか否かを裁判で決めるのは意味があるの?




1    やはり、離婚問題は最も身近な法律問題のようです。
 実際、東京の弁護士会が設置した新宿3丁目にある家庭法律相談センターに私が当番で出かけたときに寄せられる相談は、少なくとも私に関する限り、これまでのところ99パーセント離婚に関わるものといっても言い過ぎではありません。また、週刊朝日では2003年10月31日号で、「頼りになる離婚弁護士」などという特集が組まれたりしました。
 そこで私も離婚事件について考えるところを正直に披露しておこうと思います。以下に取り上げる点は、価値観が分かれるところでしょうから、皆様の弁護士選びの一助にしておく必要があると思ったからです。 
 皆様もご存知のように、基本的に離婚も結婚のときと同じで夫婦が話し合って離婚することに合意すれば、離婚することができます。合意ができなければ家庭裁判所に離婚についての調停を申し立てて合意できるかどうか第三者の調停委員を加えて話し合うことになります(ただ家庭裁判所では、離婚調停のことを「夫婦関係調整調停事件」と呼んでいます。それは始めに離婚ありきということではなく、あくまでも夫婦が円満に行くための話し合いをして、駄目なときに始めて選択肢の一つとして離婚を考えるという建前からだと思います。)。
  それでも合意が整わなければ、今度は地方裁判所(平成151124日現在)に離婚訴訟を提起することになります(確か平成16年度からだと思いますが、離婚訴訟も家庭裁判所で行うことになる予定です)。
 もちろん結婚するときと違って、離婚するときには、結婚生活を通じて形成された財産や負債をどうするのか(財産分与の問題)、生まれた子供の養育はどうするのか(親権、監護権、養育費、面接交渉権の問題)、離婚するということは本来不幸なことですから、誰のせいで離婚しなければならなくなってしまったのか、あるいはお互い様なのか(慰謝料の問題)、いろいろ確認しなければならないところがあって、そこに法律家の出番があるわけです。
 それらの離婚の条件について、夫婦で利害が対立したりして話がまとまらないで裁判になってしまうということは少なくないのです。
 その場合、何とか依頼者にとって納得のできる離婚条件を引き出せるよう弁護士としても努力することになります。
 しかし、離婚についての課題をどうするかという以前に、そもそも離婚するかしないかというところでさえ話がまとまらないという場合があります。
 私が常々思っているのはこのような条件の如何に関わらないところで離婚するしないが揉めている場合、裁判は無意味ではないのかということです。
  離婚条件以前に離婚するかしないかが揉める場合の典型は、夫婦の一方に不貞行為があって、それが理由で夫婦関係が破綻した場合です。配偶者が不貞して裏切られた側としては、「勝手に不貞行為をしておいて、私が邪魔になったとか嫌いになったとかいうことで離婚したいなんて、身勝手で許せない。」という気持ちになるわけです。私もこの気持ちはよく分かります。この怒りは当然のものと思います。
 現在の日本の離婚に関する判例でも、原則として離婚を求める側が不貞行為をした場合、不貞をされた側が離婚に反対する限り、離婚はできないとされています。確かにそのように扱われるならば、離婚するかしないか自体を争点として離婚裁判をする意味はあるのでしょう。
 しかしです。離婚が認められないことによって何が得られるというのでしょう?何も得られるものはありません。いくらそのように言ったところで、既に愛情を失った配偶者が戻ってくるはずはないのです。残念ではあるでしょうが、愛情のある家庭が復活することはないのです。この事実は厳然と受け止めなければならないはずです。
 しかも裁判の過程で、離婚するしないで夫婦間で主張を戦わせる結果、とんでもないお互いの人格攻撃が展開されたりしますので、ますます夫婦関係は遠ざかってしまっているのです。それなのに離婚は認めないという判決が出る。こんな馬鹿げたことは私には理解できません。
 そもそも夫婦としてうまくこれから生活できるかどうかなど、全く法律とは関係ありません。第三者の裁判官が判断できるものではないと思います。夫婦関係が破綻した原因が何であれ、裁判になってしまったこと自体、ほとんどの場合、その時点で夫婦の信頼関係は完全に崩壊していて、離婚以外の選択肢などありえないはずです。
 裁判所として、弁護士として、離婚するかしないかを議論するのではなく、むしろ不貞行為が原因だったのだとすれば、どのような離婚条件にするのが公平で正義にかなうかということを議論することに絞るべきだと思います。



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