民事訴訟に陪審制または参審制を




 皆様も、今日、21世紀の日本の司法のあり方をどうするか、現状の司法のあり方をどのように改革するのが望ましいかと様々、議論されていることは新聞、テレビの報道などでご存知でしょう。その改革のことを司法制度改革と呼んでいますが、そのテーマの一つとして裁判を裁判官任せにするだけではなく、法律の専門家でもない一般市民も裁判官と協力すべく裁判に加わってはどうかという問題があります。今回はその問題について取り上げたいと思います。

 なぜ市民が裁判に加わるべきかということが議論されるかというと、法律はもともと、社会常識を体系化したもののはずですから、原点の社会常識からかけ離れて、法理論に走ってしまい常識では理解しがたい裁判になってはいけないはずなのです。それをまず阻止しようということなのです。そしてまた、本来、裁判所は日常生活で起こる紛争を解決する場であるはずなのに、日本の場合、とかく裁判というのは自分とは縁のない世界、他人事と思われているところがあり、裁判に参加する機会を設けることによって、市民にとっても裁判所を身近に感じてもらうようにしようということも考えられているのです。

 ところで市民が裁判に加わるというのは、大別して二種類の形態があるとされています。
  一つは陪審制です。これは10人前後の人数の一般人が裁判を最初から傍聴して、裁判官抜きに事件について討議し、白か黒の結論を出して法廷で発表する。そしてその結論について、理由の如何はともかくとして担当裁判官も拘束され、その結論を前提とした判決を導かなければならないというものです。
 もう一つの形態は参審制というものです。これは法廷においては23人前後の一般の人が裁判官の隣に並んですわり、審理をする過程又は判決を出すにあたって、裁判官と意見交換をしつつ、裁判官の専門的判断と一般人の庶民的常識的判断とを融合させようとするものです。
 これら2種の形態にはそれぞれ長所と短所があり、一概にどちらが優れているかと決めることはできません。端的に言えば陪審制では理屈抜きなので、どんな理由でどんな結論になるか予測困難であるということがあります。一部の声の大きい人、押しの強い人の意見に、仕方なく陪審に加わっただけの多くの陪審員が付和雷同して安易な結論が出てしまっても、その結論が出た過程はブラックボックスで確認できません。この点、参審では、専門家と協議して結論が導かれますし、判決においては理由が明確になりますから問題ありません。しかしそもそも一般人が専門家と席を並べて審議したり、一緒に協議するといっても、専門家たる裁判官の意見に対抗して裁判官をも説得するような意見を述べる勇気と能力がある人はどれだけいるでしょうか。いるとしてもそれは純粋な一般市民ではなく、ある程度、法的素養のある人たちに限定されてしまいますから、市民参加という意味では明らかに不十分です。
 この点、議論が絶えないところなのですが、司法制度改革では「裁判員制度」と称して、どちらかというと参審制に近い形態の制度の導入の方向に進みそうです。

 私は陪審制にしないのはおかしいとかここで主張するつもりはありません。私は陪審制にも不安を感じているからです。無難なところからはじめるという意味では参審制でもいいかなとは思っています。
 しかし問題なのは、これらが議論されているのはもっぱら刑事訴訟を対象としているようだということです。

そのどこが問題なのかを次にご説明します。
 そもそも、日本における刑事事件は、検察庁が裁判所に起訴する事件はほとんど被告人が最初から罪を認めており、あとは量刑の問題という事件です。ここでは一般人が活躍する機会はありません。
 もちろんごく一部に被告人が無罪を主張するなどして、判断の微妙な事件があるのも事実です。しかしその種の事件の場合、既にマスコミが盛んにニュース報道やワイドショーでいろいろと取り上げたりしているため、果たして本当に一般市民が、先入観抜きに被告人の有罪、無罪の判断をすることができるのか、私は疑問に思っています(だからといって、報道を制限しようとするのも、報道の自由、国民の知る権利の見地から大きな問題があります)。つまり市民の裁判への参加が求められる事件自体が少ない上、参加の意義がある事件については、その中立公平な判断を担保するのが難しいのです。
 この点、民事事件は違います。無論、裁判で勝ち目があるかどうか、相談を受けた弁護士は検討してはいますが、その立場上、相談者の主張を信頼して判断しております。また弁護士の個人的価値判断に基づいて訴訟提起の是非を判断しております。したがって結論がどうなるかは裁判をしてみないと判らないという微妙な事件が少なくないのです。
 そして市民感覚、社会常識に基づく判断がより必要とされるのは、犯罪の処罰を目的とする刑事訴訟よりも日常紛争の解決を図る民事訴訟でこそ重要です。私もこの事件が陪審制のもとで行われていたならば勝てたであろうとというケースを最近体験しました。誰が見ても依頼者の不利益が回復されてしかるべきなのに、相手方が勝ってしまいました。裁判所はその役割上、法体系の整合性を保つことを重視せざるをえませんから、そのようなこともしばしば起こるのです。ニュースで話題になった事件でも、「えっ」と思うような判決がたまに出ていますよね。そのほとんどが民事事件です。それはそれで裁判所が法を通して事件を解決するという役割を果たしている結果ですから、裁判所が悪いわけではありません。しかし市民の理解が得られない判断であっては何にもなりません。それをカバーするのが裁判に市民が参加するという意味なのです。
 また民事訴訟がニュースなどで取り上げられるときは、判決が出て始めて取り上げられたり、最初からどちらの主張がとおるだろうかという冷静な報道がされていることがほとんどで、刑事訴訟の場合の犯罪事件報道と比べて問題も少ないと思います

 それに裁判所を身近に感じてもらうようにしようという意味でも、民事訴訟でこそ当てはまることだと思います。刑事訴訟が身近になったら却って困ってしまいます。それは治安の悪い社会で身近に犯罪者や被害者がいるということにほかならないからです。

 私はむしろ刑事事件では専門の裁判官を信頼して任せるべきで、民事事件にこそ市民が何らかの形で裁判に加わるべきだと考えています。民事事件での市民参加という議論がおざなりにされているのは残念でなりません。


 


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