水遊びはもう全面禁止!!          




1    このホームページを立ち上げたのは17年前ですね。月日の経つのは早いものです。その初期の頃にアップした記事の一つが「水遊びには気をつけよう」でした。
水遊び、つまり裁判で水掛け論をするのはリスクが一杯なので程々にするように、むしろ水掛け論になってしまうようなら、和解で解決した方がよいと呼びかけるものでした。
 訴訟において水掛け論になる事態が望ましくないこと、しかしながらそのような事態に陥ることは避けられないこと、そしてそのような事態になったときには早期に和解を模索してリスクの軽減を図ること、この私の考え方は今日においても変わりありません。
 しかし、訴訟をめぐる裁判官の意識の持ち方、特に和解についてのとらえ方については、この間に劇的に変わってしまいました。
 今般は、その変化した裁判官の意識、特に和解についての意識についてご紹介します。
 端的に言って、もう訴訟において「水掛け論に陥ることは許されない」ということです。相手方から訴訟が提起されてしまったときは致し方ありません。水掛け論になろうと何であろうと、ご自分の立場については遠慮なく主張せざるを得ません。しかし原告として訴訟を提起しようとする限りは、少しでも水掛け論になることは避けなければならず、少しでもその可能性があるとしたならば、訴訟提起を見合わせなければなりません。
つまり、「水遊びは全面禁止!」と思って頂かざるを得ません。
  以前、裁判官は、原告が訴訟提起してきたとするならば、それはそれなりの真剣な思いがあってのことのはずである。そして被告がそれに対して争うについても、それ相応の思いがあってのことのはずである。というように当事者の思いに寄り添おうとする傾向がありました。であるので、お互いの主張が充分に整理されていない段階であっても、お互いの譲り合える妥協点を時間をかけて探り、調整しようと努力をするという姿勢で訴訟を進行させておりました。しかし、そのように当事者の思いに寄り添おうとすればするほど、和解協議には時間がかかります。何度も和解協議をしても平行線のままで、訴訟が膠着状態に陥るということさえ少なくありませんでした。いきおい訴訟は長期化します。しかしそれでも、やはり和解で解決した方が望ましいと思われる案件であれば、もう一度、判決の前に和解協議を粘るということさえあったのです。
 ところがです。このホームページを立ち上げた頃に比べ、裁判官の考え方が、「時間をかけて中途半端な和解をまとめるよりは、迅速に判決を下して回転を速くする方がよい。むしろそれこそが裁判所に求められた役割である。」というように変化してきたのです。いや、実は「水遊びには気をつけよう」という記事を掲載した頃には、既にその徴候が現れておりました。お恥ずかしながら、私が気が付くのが遅かったのです。その頃は、「事務的、機械的に事件処理する裁判官もいるのだなあ」という程度には感じておりました。しかしいつの間にかそれが当たり前になっていたというわけです。
 つまり現在、裁判官はまずは、お互いの主張を整理することを最優先にし、争点を絞り込むことを先行します。そしてある程度、「こういう判決になるだろうな」という心証を先に形成してしまいます。裁判官が和解による解決を提案するときには、裁判官には既に結論の輪郭は見えているわけです。その段階での和解では、裁判官の心証に沿った方向性での和解協議しか行われず、本来の和解のメリットであるお互いが相手方の利益、立場、気持ちに配慮して、互いに譲歩しあうということは期待できません。そして更に言えば、裁判官が既に原告側の請求は認めないという心証であれば、被告に一定の譲歩を求めるという合理性は全くないので和解協議さえ行われません。
 要するに、もはや和解も判決もさほど変わらないわけですから、自ら訴訟提起しようとする以上は、判決で勝ち切れるという見通しが立つことが必要なのです。
 というわけで、訴訟提起しても和解を成立させればよいのだからと考えて、安易に訴訟提起はできなくなったのです。もはや水掛け論になる事態は許されず、裁判で水遊びなどしていることはできないのです。



 筆 者 プロフィールへ            法連草一覧へ back