NO.23 損害賠償請求事件の底流に潜む受忍限度論的思考




 皆様も受忍限度論という用語は一度や二度は聞いたことはおありでしょう。
 一般的に、騒音、振動、異臭、日照などの環境が悪化しているとき、その騒音、振動、異臭の発生源となっている個人や団体、日照を妨げている建物の所有者等に対する損害賠償が認められるか否かが問題となるときに、受忍限度を超えているか否かが論じられるのです。
 なぜ受忍限度が論じられるかと言えば、騒音、振動、異臭、日照に悩まされるような事態が不快で耐え難く思っていたとしても、その相手方にとっても生活があるわけで、音楽の愛好家が好きな音楽を部屋で聴いているだけだったり、元気な子供達が部屋を無邪気に駆け回っているだけだったり、人気の焼き鳥屋さんが何も悪気なく焼き鳥を焼いているだけということもあるわけです。そのような何も悪意のない日常の趣味や生活、商売についてまで、常に近隣の人から損害賠償請求されるかも知れないなどと警戒し続け、必要以上に気配りせねばならないというのでは、神経をすり減らしてしまいます。そこでその矛盾葛藤を調整するために受忍限度が論じられるわけです。一言で言えば、ある程度はお互い様であるのだから、いちいち目くじらを立てるべきではないという考えです。でも、もちろんそれには限界があって、普通あり得ないような騒音や振動、臭気を発生させて、近隣の平穏な生活を侵害しているならば、それは違法な活動だから損害賠償に応じなければならないということです。
 
 さてここからが本題です。
 私の経験から感じたことですが、この受忍限度論的な思考(「ある程度はお互い様なのだから、いちいち目くじらを立てるべきではないという思考)は、損害賠償に関わる案件が問題となるときに常に用いられているように思うのです。一般的には受忍限度論は先に述べたように生活環境に関わるときに議論されるのですが、他の場面でも登場します。
 そのことを充分認識しておかないと、損害を被ったとして裁判所に損害賠償請求の訴訟を提起しても、失望させられる結果に終わることもあるので、注意が必要です。

 以下にいくつか例を挙げます。 
@  ある申し込みの受付締切時間の案内が不十分だった場合はどうでしょう。
 何月何日必着で送るか、その日までに受付窓口に持参して提出するという案内文であったところ、その締め切り日に受付窓口に持参して提出しようとしたが、受付窓口が既に閉鎖されており誰にも受け付けてもらえなかった、諦めきれずにしつこく大声を出していたところ、ようやく奥の方から人が出て来てくれたものの、窓口の開いている時間を過ぎていることを理由に受け付けてもらえなかったという場合です。
 この場合、受付窓口が開いている時間が予め案内されていないことが問題です。そのため、申し込みをし損なってしまったのです。しかし裁判所は、受付窓口が常識的な時間帯において開いていたならば、特に違法はないと判断します。つまり受付窓口の開いている時間帯の案内がなかったとしても、まさか真夜中まで受付窓口が開いているとは通常は考えないし、常識的な時間帯で窓口が開いていて申し込みをする機会が保障されているならよい、案内文に不備があったからといって、あげ足取りのように責任追及すべきではないというわけです。    
 もっとわかりやすいのは、列車のダイヤ乱れでしょう。ダイヤが乱れて運行が遅延していても、運賃が一部でも返金されるようなことはありません。
 鉄道が何らかの事情で遅延するのは仕方のないこと、一日がかりで歩いて出かけることを考えたら、少々、鉄道が遅れても我慢できるでしょというわけです。
 購入した商品が、いわゆる傷物であった場合はどうでしょう。普通であれば、このようなとき、お店側も信用に関わりますから、急いですぐに商品の取り替えに応じてくれるはずです。しかし顧客からの満足度や信頼などどうにでもなれというようなお店がないとはいえません。そのようなお店が商品の交換にも応じてくれないとき損害賠償請求できるでしょうか。
 その商品と、傷の付いた箇所、程度にもよるので一概には言えませんが、傷がついていてもただの気分の問題でしかないとして、損害賠償請求は認められない場合が多いと思います。 
 
 以上のような例を考えると、裁判所はただ単に形式的・機械的に違法かどうか、債務不履行があるのか否かを考えているのではなく、同時にある程度はお目こぼしをして、我慢できるレベルにあるのか否かを考えていることが分かるかと思います。
 今日、人々の価値観が多様化し、他人のミスや不始末について許せるレベルというのが人それぞれになってきております。
 裁判所の感覚では目くじらを立てるべきではないことであっても、当事者にとっては許し難いこと、極めて不快な思いをしているという場合も少なくないのですから、受忍限度論的思考を持ち出すのではなく、むしろ過失相殺を幅広く考えることでバランスを取るとか、慰謝料算定の評価の場面で調整するとかで柔軟に対処するべきではないかと考えています。受忍限度論的思考があまりに強調されると、下手をすると、「裁判所に訴えてもどうせ何も解決しないのだろう」というような、一種の司法不信を招くような気がしてやみません。