NO.20  離れて暮らす親と子供の交流(「面接交渉権」)の再考察(2)




1  前回のトピックに引き続き、離れて暮らす親と子供の交流の問題について、取り上げます。
 今回は、子供もすでに成人に達している場合をまず取り上げます。
 そういうと、子供も成人になっているなら、会いたければ親と会うだろうし、会いたくなければ親と会わないというだけで、別に離婚時に問題になることもないのではないかという指摘があろうかと思います。それはもちろんです。しかし本来、親と子供が会う面接交渉権は、子供がまだ幼少であるうちに両親の離婚に直面した場合にのみ問題になるわけではないのです。
 親が老齢の域に達して、認知症が著しく進行した場合を考えて下さい。子供の方は成長して、自分で行動できるようになっていますけれども、今度は親の方が自分自身で行動できる能力が欠けてしまったという場合です。そういうような場合、普通は子供たち兄弟姉妹の間で誰が介護するのかなどで負担を押しつけあうなどということがしばしばありますが、そうではなく、逆に何らかの思惑で兄弟姉妹の内の特定の者が親の介護をもっぱら行い、その代わり他の兄弟姉妹にはその状況を全く知らせない、実際には介護施設などに入所させているにもかかわらず、他の兄弟姉妹にはどこの施設に入所させたのか全く知らせない、聞かれても教えないなどという対応をされることもあり得るということなのです。
 それでもそんな馬鹿なことはあるかと思われるかもしれませんが、実際、私がそのような案件を担当して、訴訟提起したことがありましたので、今回、取り上げることにしたのです。 
  結論を先に述べます。
 
親と子供とが自由に交流できることは、基本的人権ではなく法律による救済を求めることはできないというのが最高裁判所の見解です。つまり特定の者が、親がどこにいるのか子供に知らせなくてもいい、それによって、結局、子供が親と会うことができなくても別に構わないというのが最高裁判所の見解でした。
  率直に言って、全く意外な判決で、全く納得のいかない結果でした。
 理由は何なのでしょうか。判決では基本的人権ではないというだけです。子供と親が何人にも妨げられることなく、会いたいときに会うというのが権利として確立されていないというのはどうにも理解できません。
 あまり政治的なことに踏み込んで論評したくはありませんが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本人拉致は、被害者の居住移転の自由を侵害しているばかりか、被害者は自分たちの家族と引き離され、会うことも会話することもできなくなっている、それは家族の方にとっても同様で、被害者本人の生き死にでさえ分からず、何一つ近況も分からない状態に置かれていることこそが、ひどい人権侵害であると思うのですが、最高裁判所の見解では、そんなことは法の保護に値しないというのです。
 私にとって、あまりに予想外の判決でしたので、このことをすぐに取り上げようという気持ちもあった反面、逆に親を独占して相続の時に有利にしようなどと考えて、同じようなことをする方が出てくることを畏れ、取り上げるのをためらってもいました。しかし反面、いずれにしろ、私が担当したような案件も、高齢化社会を迎え、これからは珍しくなくなるのではないかと思いました。だとしたら、
親と子供が会う面接交渉権が、実は基本的人権ではないとされているという意外な事実をご紹介しておいた方がよいと思った次第です。

 さて、そうしますと前回のトピックで取り上げた離婚に際して問題となる面接交渉権も、当然には権利として保障されているものではなかったということになります。
 あくまでも「子供の福祉」のために、政策的に、離婚後も子供と非監護親との面接交渉ができるようにしておいた方がよいという配慮をしているに過ぎないことになります。
 ところで実は、離婚に際して問題となる面接交渉権が、元来の「権利」であるのか否かで、家族法の学者の間で見解が分かれており、近年では当然の権利なのだという見解が通説になっているように見えます。私もそのように信じて疑わなかったのですが、実務家の一人としては、高齢となった親と子供との面接交渉が権利ではないという見解を突きつけられた以上、離婚に際して問題となる未成年の子供と非監護親との面接交渉権も、元来、権利として保障されたものではないのだと見解を改めざるを得ません。
 だとしたら、家庭裁判所が面接交渉についての調停や審判を扱うに際し、もう少し柔軟かつ慎重に、何が本当に「子供の福祉」に合致するのか見極める必要があるのではないでしょうか。なぜなら元々権利として保障されたわけでないのですから、議論の出発点は、非監護親がいかに子供をいとおしく思っていたとしても、必ず子供と自由に会えて当然というわけではないというところにならざるを得ないからです。しかし家庭裁判所の扱いは原則と例外が逆転していて、子供と非監護親とを会わせるのが原則という運用になっているので、おかしなことといわなければなりません。
 また、面接交渉権が実は本来の権利ではなかったのだとした場合、先のトピックで、「原則として、面接交渉は認める方向で対応します。仮に監護親から相談を受けて「面接交渉には応じたくないのです」といわれても、その要望には応えることができません。」と書いた私のスタンスもおかしいのではないかといわれるかもしれません。
 しかしたとえ面接交渉権が本来の人権ではないとしても、その結論自体が理解しがたいくらいであって、子供と親が自由に会いたいときに会えるのが望ましい状態であることには違いがありません。ですので、家庭裁判所の運用がもう少し慎重かつ柔軟であってしかるべきだとは思いますが、取り扱いを180度改めるべきだとまではとは思いませんし、私自身もスタンスを変えるつもりはありません。 

 5   ただそうすると、幼少の子供と親との面接交渉が問題となるときと、高齢の親と子供との面接交渉が問題になるときとで、全く別の結果を受け入れなければならないことになってしまいます。それは何とかしなければならないのではないでしょうか。
 思うに、
面接交渉権が本来の権利ではないとしても、幼少の子供と親との面接交渉が「子供の福祉」の見地から政策的に手厚く配慮されるのであれば、高齢者もまた自分の血を分けた子供たち皆に等しく自由に会えることもまた「高齢者の福祉」の見地から配慮されてしかるべきです。これまでは兄弟姉妹が親の介護を一人で抱え込むのは大変だから、協力し合おうと考えるのが当然で、介護をしている兄弟姉妹が他の兄弟姉妹に、親の状況を何ら知らせず、どこで暮らしているのかも知らせないなどということはあり得ないだろうと考えられたため、放置されて来たに過ぎないと思います。
 
今後の超高齢化社会を迎え、新しい問題として「子供の福祉」と一対のものとして「高齢者の福祉」を考えるべきですし、高齢の親と子供との面接交渉権についても、民法に新しい条項を加入して、権利として「確立」させてほしいと思います。 たとえもともと権利として保障されていないとしても、日本人の叡智の結晶として権利を作り出すことは可能なのです。
 もっとも私としては、親と自由に会うことなどは法律の規定を待たずに基本的人権であることは当然であって、これから新たに作り出さなければならない権利であるとは、信じられないのですが・・・