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2006年3月15日〜2006年3月11日


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投稿者

投稿日時

法治国家は自力救済を禁じています。

管理人

3月15日(水)14時44分

体験から学ぶこと

正義一徹

3月15日(水)14時17分

VISについて

るみたん

3月15日(水)13時43分

声の大きな者のみが保護される心配については。

管理人

3月14日(火)21時35分

いろんな意見は当然です・・

ドン・ポンタ

3月14日(火)19時19分

血の通った司法に!!

管理人

3月14日(火)17時12分

庶民感覚の発揮どころ

るみたん

3月14日(火)12時08分

裁判員に求められるもの

管理人

3月14日(火)01時43分

目的と方法がちぐはぐな裁判員制度

るみたん

3月14日(火)00時32分

ありがとうございました

ドン・ボンタ

3月13日(月)23時18分

取り急ぎお礼申します。

正義一徹

3月13日(月)20時02分

演説おじさんの例、etc

管理人

3月13日(月)17時46分

裁判員法の対象をもっと下において

正義一徹

3月13日(月)14時35分

演説おじさん

るみたん

3月13日(月)14時32分

そうとばかりは・・・

管理人

3月13日(月)12時50分

世間の常識が問われる現代

るみたん

3月13日(月)11時19分

まさに陪審員の必須的条件

ドン・ボンタ

3月13日(月)08時45分

私も言いたい裁判員制度

正義一徹

3月13日(月)05時24分

私が懸念していること

るみたん

3月13日(月)01時52分

それを言ってはおしまいです。

管理人

3月13日(月)01時15分

一連のやりとりで感じることは

ドン・ボンタ

3月12日(日)23時40分

裁判員制度

管理人

3月12日(日)22時41分

問題が多すぎて・・・

るみたん

3月12日(日)22時00分

難しい問題です

ドン・ボンタ

3月12日(日)19時08分

掲示板では誤解は生じやすい

ドン・ボンタ

3月12日(日)09時55分

誤解されるといけないので。。

管理人

3月12日(日)01時01分

気をつけたい「民主的コントロール」

管理人

3月12日(日)00時34分

専門家ですら

るみたん

3月12日(日)00時29分

裁判官物語

ドン・ボンタ

3月11日(土)23時42分

先延ばしにしたなりの代償

VODKA

3月11日(土)23時20分

 


法治国家は自力救済を禁じています。  投稿者:管理人  投稿日: 3月15日(水)14時44分38秒

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犯罪の被害にあったとき、端的に言えば復讐したいという思いに駆られる人がいたとして何を責めることができるでしょうか?
ただそれを無条件に許していたら、社会は無秩序に混乱し、正にイスラエルとパレスチナではありませんが報復の連鎖にもなりかねないのです。
だから個人から復讐やあだ討ちなどを行う権利を奪う一方、悪いことをした者がいたら、代わりに国が処罰して差し上げるという制度が構築されてきたというのが法治国家の原点ではないでしょうか。
ところが現在、被疑者・被告人のためにいろいろ権利が保障されているのに(それが十分に機能していないということは別の問題としてここでは置いておいて)、被害者はただ裁判の進行を指をくわえてみているだけ、何も発言できないということでは、そもそもの原点が忘れ去られているのではないか、ということです。
法廷で被害者が怒りを表明できない、恨みつらみを発言することがタブーとされ、法廷外でのみ感情を述べ立てるほかないのだというのでは、むしろ私は社会が先祖がえりをして、法や裁判を抜きにして「やられたらやり返せ」という社会になりかねないのではないでしょうか(現にそうはなっていないとの反論もあるでしょうが、被害者がこれからますます権利意識に目覚めたときにどうなるかは分かりません)。
自力救済を否定した以上、その責任として、被害者の気持ちを汲み取る場が制度化されていなければおかしいと思います。
身近な社会の中で一般の人々も被害者のための支援者であるというようにするべきことは大賛成なのですが、なぜそれが法廷の場ではむしろ排除しなければならないといわれるのか、申し訳ないのですが私には理解できません。

あと、るみたん様の書き込みの中で一点だけ、私の考えについて誤解されているところがあるようでした。
「犯罪事実の認定に一時の被害者感情を容れてしまえば」というのがありました。しかし犯罪事実の認定に、被害者感情が入ってくる余地はありません。被害者は真犯人に対して怒りを向けているのであって、現に裁判を受け疑われている被告人に怒りを向けているのではないのです。

 私も推理小説の主人公の名推理にはなかなかついていけているわけではありません。他の多くの読者とて同じでしょう。しかし推理小説ファンはその名推理に自分も近づきたいと考えているのです。また推理小説には主人公の活躍ぶりと対比させるために、直感と思いつきだけで結論を短絡的に導き出して嬉々としている「へぼ刑事」の類が登場することが多いです。推理小説のファンが、「へぼ刑事」になって自己満足するとは私は考えません。
 裁判員としてある事実認定の場に直面したら、あるいは「あの推理小説ではこうだった」というのが最初に思い浮かぶかもしれません。そしたら次にその根拠はなんだったかを思い出し、それが今回の事件にも当てはまるものなのかどうかを考えることになるでしょう。そこまでの分析をしないで結論だけ意見表明したら、外の裁判員や裁判官にたしなめられておしまいになるだけです。
 それはともかく推理小説の話しを出したことで、推理小説について異なるイメージを抱いている方との間で、却って話がかみ合わなくなってしまい、失敗でした。
 私が言いたかったことは、一般の方々の常識や判断能力はそんなに捨てたものではないということです。
 ただ問題はプロを自認する裁判官と対等に意見交換できる度胸のある人はいないだろうなということです。将来、裁判員になられた方はどうか自信を持ってくださいと申し上げたいのです。

 


体験から学ぶこと  投稿者:正義一徹  投稿日: 3月15日(水)14時17分7秒

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ドン・ボンタ様
 陪審制度復活に関する二つのサイト(拠点=東京・大阪)共に同じ理念の市民団体として早くから活動されていたことを知りました。昭和の初め頃から戦前には我が国でも陪審制度があったことは、中学で習った記憶があったのですが、詳しい知識は無くそれが停止の状態でまだ生きていたとは驚きです。ドン・ボンタ様も先の書き込みで言っておられたのもこのことだと認識を新たにしました。
 大阪の会代表のお二人とも随分ご高齢なのに熱意が溢れる活動をなさっているのに頭が下がります。そのページに載せられている陪審制度と裁判員制度の違いなどうまく解説されていますから理解するのに難しくありません。さらに、陪審法改正案を創案されているのを見れば、裁判員制度がまだ実動していない内に直ぐにでも置き換え可能と思えるほど、充実した改正案だと思いました。しかも、そのお二人とも刑事司法を重点に考えられ実績を持っておられること(元裁判官や弁護士、大学教授など)に二重の驚きを覚え、感動してしまいました。
 市民の司法参加の重要性は私も不当な裁判を体験してしみじみと実感したのですが、自らその運動を起こす手段が分からず、またその力も無く、ただ徒に意見を発表して同意者を募ることさえもろくにできなかったことを、既に形のあるものとして早くから活動されている会にのめり込んでしまうであろう心境です。
 また、東京の方も同様に法の専門家が中心に活動されていて、市民の司法参加の意識向上の為に定例会やイベント、模擬陪審裁判などの他関連する団体やサークルなどとリンクで結んだネットワークなどで意識の盛り上がりを狙った多様な活動をされています。

皆様
 掲示板は裁判員制度の議論で盛り上がりましたがそろそろお互いの意見が出尽くした感じですが、実は私が「不当裁判体験記」を通じて皆様のご意見を知りたかったことは、優にこの裁判員制度だったのです。司法のあり方、三審制度の疑問、弁護士も含めた裁判所の社会常識無知などを訴える当体験記の掲載が当初の計画(週1回・10回連載)の大幅変更を余儀なくされ、再編集に手間取り、その中で市民の司法参加(冤罪防止の効果)の必要性を提起する文を掲載するまでに至らなかった間に掲示板が先行した形になったのですが、結果的には私の要望も達成したことで喜んでいます。残り半月の間になるだけ多くの体験から学んだ刑事司法の問題点を主にした私見を書かせて頂いて、皆様のご意見をお聴きしたいと思っています。

 


VISについて  投稿者:るみたん  投稿日: 3月15日(水)13時43分8秒

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ドン・ポンタ様
 米国の制度でVISは、被害者が犯罪によりどのような被害を被ったかを陳述する制度で、Victim Impact Statementの略です。また、被害者が量刑について意見を陳述する被害者意見陳述Victim Statement of Opinionという制度があります。全ての州が採り入れているわけではありませんが多くの州で行われており、いずれも書面、若しくは口頭で述べることができます。日本の被害者意見陳述はこのVISの日本版ですが、あくまでも目的は被害者感情の沈静化ではなく、加害者に帰責の念を抱かせるためのものです。類似の制度のようにみえますが、日米で大きく違うのは事実認定と量刑手続が米国では明確に分かれているということです。日本では犯罪事実を認定する証拠として許容されません。すなわち被害者意見陳述が事実認定、及び量刑には影響しないことを意味しますから、多くの被害者やその支援者の量刑に影響させるという目的は誤りであり、重罰への期待は報われないことになり、被害者を手段にしたり、かえって被害感情を増長させてしまうことになりかねません。したがって、量刑が確定した後にこの手続を組み込むべきだという見解もあります。また、全てのケースに適用するのではなく相当な場合に限定されるのも妥当であるといえるでしょう。
 私は、制度として組み込むならばやはり刑が確定した後にすべきだと思っています。しかし、確定するまで被害者感情を放置するわけにはいかないので「司法の場」ではないところで思いのたけを叫んでいただくのがよいと思っているのです。その際には、意見陳述書に記載するようなよそ行きの言葉ではなく、どのような表現をしても構わないという場であることが条件になりますが。
 米国以外の国との比較までは紙幅の関係もあり書きませんし、つたない文章ですが少しでもお伝えできれば幸いです。

管理人様
 先のレスで一点だけ私の申し上げたことと違うのは、被害者感情がないものとして処理されることが声の小さい被害者の不満ではありません。声の大きな被害者が優遇される制度に対する不公平感なのです。制度への不満や不公平感を処理するのは心理カウンセラーの仕事ではありません。つまり、現在の支援対策の方向性は大いに疑問であるということです。また、以前申し上げましたように真の支援は、身近な人が支援者になりうる社会なのですから
何か体制を組むとか、早急に整備するという性質のものではありません。
 また、被害者感情を拾わないから「血が通っていない」と判断することはできないと思います。生命刑、自由剥奪刑を科すには慎重で厳密な手続が必要であり、一時の感情に左右されるなどということがあってはならないことです。犯罪事実の認定に一時の被害者感情を容れてしまえば報復の手段として法の仕組みが用いられる危険性があります。もっと簡単に言ってしまえば、怒りや憎しみといった主観的な感情を沈静化させる手段として司法の場が用いられる危険があるということを意味します。「報復の場」として用いられる危険性を残したまま裁判員制度を導入すればやはり魔女狩りになってしまう危険性は排除できません。そうなればかえって混乱し、行き着く先は「自由の抑圧」です。ですから感情を吐露するのは「司法の場」ではないところで設けなくてはならないと私は申し上げているのです。
 あともう一点だけ申し上げたいのですが、論理的検討ができる推理小説ファンは、管理人様のようなごく一部の方だけでしょう。つまり、管理人様のおっしゃる「真の推理小説ファン」というのは知的レベルの高いごく一部の方であって多くはいわゆる「状況証拠」を手がかりに自己の「真犯人は誰か」という予想が当たるか外れるかということに関心を注いでいるようです。管理人様のように知的レベルが高く、論理的思考ができる人というのはごく一部であるというのが実情(本当の庶民感覚ともいえる)であることを一つ頭に入れておいていただけませんか。残念ながら多く人は個人的な感情優位で動いています。みんなが論理的思考で動いていただけるのならカウンセラーなんていりません。

http://groups.msn.com/overtherainbow1a

 


声の大きな者のみが保護される心配については。  投稿者:管理人  投稿日: 3月14日(火)21時35分23秒

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るみたん様は、確か声の大きな被害者ばかり取り上げられるけれども、本当は声も出せないくらい悩み苦しんでいる被害者が多くいることが忘れられてしまうということを、常に問題視されておりましたね。
それに思いをいたしたとき、法廷での被害者感情の発露を避けたいと思われる理由も分かる気がしてきました。
つまり、結局、声の大きな被害者のみ注目を集め、量刑にその思いが反映させることができたとしても、それよりひどい精神的ストレスを抱えて人前にもでれない、人前で素直に気持ちを語れないような被害者は自らアピールできないことによって、声の大きな被害者の存在との対比でますます忘れ去られてしまい、ひどいときには大した被害者感情はお持ちではないとして処理されてしまうというご心配をされているのかとも、思いました。
 しかしそのような被害者をバックアップして支えるのが心理カウンセラーのお仕事でしょうし、裁判所でも変に軽んじられて損することがないようにサポートし応援するのが、被害者側から依頼された弁護士の仕事ということになるでしょう。整備も支援も整っていないというならば早急に整える体制を組むのが心理カウンセラーや弁護士に与えられた仕事なのではないでしょうか。
 という次第で前向きに考えていきましょうよ。

 


いろんな意見は当然です・・  投稿者:ドン・ポンタ  投稿日: 3月14日(火)19時19分57秒

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 るみたん様
 早速ですが、VISという略語のフルスペリングを教えていただけますか?略語のアップデイトができていないものですから。ニュアンスからなんとなく推察できそうな気もします・・・・
 裁判員制度の課題と疑問点が随分抽出されましたね!管理人様とのやりとりで、いちいちもっともだとうなずく局面も多いです。推測ですが、そういう議論は、きっとなされなかったのではないでしょうか。審議会の最終答申と刑事・裁判員制度検討会のメンバー構成を見ると、現在進行形で議論されているような、あるいは、ここあすこでもされているようなことがなおざりのまま制度化されたように思えてならないのです。
 民事を対象にという要請は特に消費者団体から寄せられていました。気持ちはよくわかりますしまたそうあるべきだと思いますが、日本の裁判制度の現状から見て、それこそ判決文でいう、一切の事情を考慮してとなれば刑事を先にすることも止む得ないでしょう。個人的には、民事の方が裁判員としての判断は難しいように思えますが・・・。勿論、これで言い切るつもりは毛頭ないことを付け加えておきます。
 管理人様
 私は頭が鈍くてしばしばぴ〜んとこないことあります。↑で申し上げたかったことは、なぜ「裁判員制度」か、その位置付けが実はあやふやだと思います。最高裁と法務省及び検察庁は、裁判員制度を陪審制または参審制のどちらにより近づけようとしているか、一切していません。見るかぎりは、実質参審制ということで異論がないでしょう。でも、陪審的要素(色彩)を取り入れたことにより、法構造上で自己矛盾、バッティング現象を起してと見ることもできます。陪審と参審のいいとこどりをする。これは無理な話です。たとえ、世界で日本しかないとはいっても。
 危惧されることは、裁判官として最高裁のリストに記載されている裁判官は誰ひとりとして参審あるいは陪審裁判の経験がない!!それで2005年度から満足な訴訟指揮ができるのか?勿論、転がしてみなければわかりませんね。更に、参審・陪審制度について正確な知識と情報が欠けていることは指摘されています。特に、陪審制度については誤解をしている節が多分にあるようです。
なぜかといえば、「多様な経験をもつ12人の陪審員の常識の方が信頼できる」という考えがいたく日本の裁判官の誇りを傷つけ、陪審制を拒否する反論の攻撃目標とされてきたからです。これに関連して、日本の裁判官の課題はキャリアシステム下で均質の狭い社会経験しかないという指摘に対してどうみても説得力のある説明はできないでしょう。

 私がいいたかったかことは、すでにほかの方が言われているように、裁判員制度が「裁判の質の向上」を約束し、それが「司法への信頼と遵法行動への意欲」の強化をもたらすという日本的発想ではなく、
 『評決権をもつ裁判員』の存在こそが『裁判の質の向上』に役立ち、ひいては市民の『司法への信頼と遵法への意欲』を高める、という発想が最高裁・法務省・検察庁には見られない、ということです。
 つまり、司法の反省はどこに示されているのか?この反省に基づかない制度というものに信頼なぞおけるわけがない。

 


血の通った司法に!!  投稿者:管理人  投稿日: 3月14日(火)17時12分42秒

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るみたん様、
 ドン・ポンタ様のきめ台詞ではありませんが(ドン・ポンタ様、許してください)、裁判員制度に関わる問題についてはいろいろな考え方がありうるところで、必ずしも意見が合意されないのも仕方ないところです。

 ただ、私が常日頃抱いている理想的な司法は、人間味のある血の通った審理、判決になればよいなということです。もちろんわがままとしかいえないような感情にばかり左右されて、却って公平感を損なうようなことになるのは本末転倒ですが、いかなる感情をも取り上げないというような血の通わない、非人間的なものであってはいけないと思います。
 そもそも世の中の紛争は人間と人間の感情のぶつかりあいが原点です。にもかかわらず感情は抜きにして解決するというのではやはり、どこかにひずみが残るのではないかというのが私の考えです。
 そう思えばこそ、犯罪被害者が自ら法廷でも発言できる機会が保証されるというのはすばらしいことだと評価しています。ただ従前からの職業裁判官のみでは、結局、それをしっかりと受け止めて判決に反映させることができないのです。その意味で裁判員制度には私は大いに期待しているところです。

 あと一つだけ。実は、私も推理小説は好きなのです。それなもので、他人の紛争の真相がどうだったかというのを見極めるのに、関心を持てるのです。そうでなければ所詮は他人事、どうでもいいとなってしまいそうです(こと、私についてはです)。ですから推理小説と同じように考えられてはかなわないと言われるのは、ちょっと残念に思いました。
 それに「推理小説ではそうだからきっとこの事件も」という発想があながち間違っているといえるでしょうか。もちろん論理的検討抜きで結論だけ飛びついているのだとしたら問題ですが、推理小説は論理的検討の結果、トリックを見破るものです。論理的検討を抜きにして勝手にああだこうだというような人は、本当の推理小説ファンではありません。

 


庶民感覚の発揮どころ  投稿者:るみたん  投稿日: 3月14日(火)12時08分45秒

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管理人様
 刑事より民事にというのは私も大賛成です。民事の微妙なところに庶民感覚が働いて欲しいとも思っています。ただ、管理人様と違うのは、高いレベルでの権利義務よりも「正直者がバカを見ない」民事訴訟のあり方のために庶民感覚が必要だと思っています。刑事において懲役刑を科すということは自由の剥奪ですから民事より慎重でなければならないと思っています。でなければなぜ、民事は「証拠の優越」で刑事は「合理的な疑いを入れない程度」なのかの意義が問われることになると思います。したがって、刑事にこそ洗練された法律的センス(リーガルマインドは和製英語なので私はあえてthinking of lawyerを使います)が不可欠だと思っています。
 そういえば、模擬裁判では、「推理小説ではそうだからきっとこの事件もそうだと思う」という意見も散見されましたから、推理小説好きはマイナスに働くと思っています。小説はどこまでいってもフィクションですから。実際の事件を興味本位で推理小説と同レベルで考えられたらたまりません。
 それから、被害感情を無計算に「法廷」に持ち込むことの害悪については以前申し上げたとおりです。一時の同情心から庶民が後押ししても被害者に「被害者」から脱却できないという不利益をもたらします。被害者意見陳述は、現在でも推進派と慎重派があり、被害者支援の立場からは慎重派にならざるを得ません。米国のVISを真似たのでしょうが、VISには周辺の整備や支援があってこそ成り立つものですし、整備も支援も整っていない日本では時期尚早といえるでしょう。元々、米国では日本人から見れば、オーバーな言語、非言語表現をすることにも、見せられることにも慣れていますが、日本人は慣れていません。したがって、以前申し上げたとおり、泣き叫んだもの勝ちになる虞がありますし、何度も申し上げますが、「司法の場」ではないところで被害感情をぶちまけてもらわなければならないのです。「量刑事情」にはプラスとマイナス面があることは指摘されているところですが、「量刑事情」があることで量刑を不服とする上訴が現在の件数にとどまっていることは否めないと思います。もし、裁判員制度や被害者意見陳述で量刑のバランスが著しく崩れる結果になれば被告人の公平かつ公正な裁判を受ける権利が害されることになります。
 結論として、庶民感覚は被害感情を「司法の場」で増長させるためではなく、街中で支援のために発揮させていただきたいと思っています。

http://groups.msn.com/overtherainbow1a

 


裁判員に求められるもの  投稿者:管理人  投稿日: 3月14日(火)01時43分32秒

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裁判員に求められるものは、決して成熟した権利意識が不可欠だったりするわけではないと思います。
私も刑事事件よりも民事事件でこそ庶民感覚が生かされるべき場面もあるし、微妙な事実認定は、捜査機関が絞りに絞って初めて起訴される刑事事件よりも民事事件でこそ問題になるので、民事事件でこそ国民参加の方途が考えられてしかるべきという考えです。
ただ冷静に考えてみると、民事事件でこそ本当に対立する権利義務の調整、バランスのセンスが必要になるので、審理に参加する国民は、成熟した権利意識とリーガルマインドを求められることになるでしょう。つまり高いレベルが必要です。
その点、刑事事件ではどうでしょうか。別に法律に詳しいわけでなくとも推理小説のファンはたくさんおられますし、普通に常識的に物事を考える力がありさえすれば、それほど法律的素養があることは必要ないのではないでしょうか。
それを考えると裁判員制度がまず刑事事件から導入されるとなったのは現実的だったかもしれません。
私も裁判員制度には疑問が多々ありますが、少なくとも裁判員になれる素養のある人材が乏しいのではないかという点については、それほど悲観していません。もっとも裁判官とも議論できるまでのレベルの人材といわれると・・・・ですが。

あと被害者の感情の取り扱いの問題ですが、別に排除しなければならないものだとは思いません。むしろそういうものを庶民感覚でくみ上げることを意図して裁判員制度が導入されたものと受け止めています。
実際、被害者が法廷で意見の陳述をする機会が与えられたりする制度が導入されましたが、被害者の感情もできる限りくみ上げていくことがこれからの刑事司法の課題であると意識されてきたからではないかと考えています。

 


目的と方法がちぐはぐな裁判員制度  投稿者:るみたん  投稿日: 3月14日(火)00時32分52秒

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正義一徹様
 レスありがとうございます。例えば、貧困からの単純窃盗やいわゆるシャブ漬けにしてフロに沈められた女性(多くは虐待や性犯罪被害の経験がある)などに適用するのであれば、もしかすれば緩刑傾向にいく可能性があるかもしれませんね。
管理人様
 米国では、陪審員にレクチャーするのは勿論ですが、それ以前に米国では法教育が行われています。また、権利意識や民主主義に関してもことあるごとに言い聞かされて育つという風土があります。残念ながら日本ではそのような風土がありませんから管理人様がおっしゃる「お引取りいただく」方のほうが多いと思います。したがって裁判員の選定に時間がかかりすぎて審理に入れないのではないかという見解もあるようです。
 それと、実際にあった話ですが電車内での痴漢被害者の親が極刑にしてやりたいと言ったのを聞いたことがあります。いくら酌むべき事情があるにせよ、その場の感情で刑の軽重が左右されては量刑事情に影響をあたえます。すなわち、地裁レベルでは地域によってバラつきが出ることになり不都合が生じます。それでなくても未だに暴力団の間では犯行地を選んでいるという話も聞きますから、今以上にバラつきが生ずれば被告人には不公平感、いない条の上訴件数が予測できかえって裁判所の負担が増えることにもなりかねません。
 私は、現在の裁判のあり方よりも、法曹を育成する過程に問題があると思っています。ロースクールも当初の構想からはずれた方向性にいってしまい非常に残念です。
 いずれにせよスタートすればこれまで指摘されてきたことが現実のものとなり、存廃論になると私は思っています。

http://groups.msn.com/overtherainbow1a

 


ありがとうございました  投稿者:ドン・ポンタ  投稿日: 3月13日(月)23時18分51秒

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正義一徹様
 不注意で申しわけありませんでした。今後、気をつけます。

 


取り急ぎお礼申します。  投稿者:正義一徹  投稿日: 3月13日(月)20時02分4秒

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ドン・ボンタ様
 陪審員制度に関するサイトのご紹介ありがとうございました。早速アクセスして閲覧しました。所用の都合でゆっくり読む時間が無く、改めて読後の感想を掲示します。
 取り急ぎお礼を申します。

 なお、アドレスの//の位置が間違っています。
http://www.baishin***** と訂正なさってください。

 


演説おじさんの例、etc  投稿者:管理人  投稿日: 3月13日(月)17時46分9秒

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るみたん様、
私もにわか仕込みのレクチャーでは、訴訟制度や法制度が身につくわけはずもないというのは分かっています。
そんなに簡単なら誰も苦労しません。
でも裁判員としての審理に当たっての心がけ程度は何とか消化してもらえるのではないかと思うのです。それさえ理解できなかった方は申し訳ないのですが、「ご縁がなかった」ということでお引取り頂くほかありません。
アメリカの陪審制度でも、陪審員選定に際して、相当、慎重に時間を掛けているとかうかがったことがあります。日本の裁判員制度でもそれはそうせざるを得ないのではないでしょうか。

さて、声のでかい「演説おじさん」の例は十分ありうることです。私が裁判官がいるところで初心者として素朴な意見を述べることができるのは勇気が必要で難しいと述べたのと同じ文脈です。たまに勇気がある人は、「演説おじさん」のような人ばかりということです。
恐らくそういう人に対して仕切ることができるのは裁判官だけでしょうから、結局は、裁判官主導にならざるを得なくなってしまうのでしょう。

あと、厳罰化するのではないかという懸念についてですが、私は厳罰化するのであればそれはそれで結構というスタンスです。世間の人、なかんずく被害者が納得できないといい募るような量刑ではよろしくないということは言うまでもないことです。ただ、もちろん何が何でも「極刑を!」というのは問題だと、私も思っています。
しかし裁判員制度が本当に機能すれば、個別の案件によっては、厳罰化するばかりではないと思っています。被告人の境遇や被害者側のそれまでの被告人に対する対応のひどさなどについて、弁護人の情状立証が成功すれば、殺人事件でもいともたやすく執行猶予付きの判決になるなどということもありうるのではないかと思っています。世間には忠臣蔵で有名な「松の廊下」事件のような事件も少なくないと思うのですが、裁判官による量刑ではどんなに被告人に汲むべき事情があろうと、被害者の対応がひどかろうと一定程度の判決が出されていましたが、裁判員の琴線に触れるような事件であれば、これまでではありえなかったような寛大な判決が出るということも多くなると思っています。

 


裁判員法の対象をもっと下において  投稿者:正義一徹  投稿日: 3月13日(月)14時35分17秒

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るみたん様
 こんにちわ。直接名指しでレスさせて頂くのはお久し振りです。
 るみたん様の「世間の常識・・・」のレスに私の心情との共通項(同類項)を見つけ、嬉しくなってレスします。
>報道されないような小さな事件や法定刑の軽い事件を予定するべきではないでしょうか
 この一言は大変大きな意味を持っていると思います。勿論、この文言を導かれた根拠と過程は私の考えとは異なるのですが、結果は同じなのです。
 裁判員制度の対象が裁判員法(略)第2条1項1号 死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件、及び同項2号(記載省略)とされていることは、即ち、現行刑法の極刑とその次の刑に当たる罪は、殺人罪の他、強姦致死、強盗致死、列車転覆致死、など人命を奪った犯罪が主になりますが、その他特殊な罪に「内乱」や「外患」に関したものがあり、法律の専門家でも直ちに対応するのは戸惑いがあるような事件を裁判員が法律論で参審することは到底できないことであり、目的としたものではなく、社会の平均的常識での審理(判断)を、とかく既成観念や過去の判例にとらわれがちな裁判官の判断に「待った」をかける力、つまり裁判官の暴走を抑止する効果を狙った制度だと考えると比較的気楽に畏れず直視できるのではないでしょうか。
 今回の論旨が後回しになりましたが、先に結果は同じと言ったのは、同法の対象になる事件は確かに世間を揺るがす大事件で皆が注目する犯罪ではありますが、数で言えばそれより圧倒的に多い軽少な犯罪、ニュースにもならない犯罪の中には冤罪で苦しむ元被告人(私の窃盗罪もその一例)があり、他方、被害(特に精神的被害)の大きさに比べれば(世間の常識では)軽すぎる判決などがうずもれてしまっている現状を真剣に見つめれば、大事件よりむしろ軽少な事件に対象を置くべきではないかと思うのです。その為には莫大なお金が必要になり試算しただけで「没」になる提案と思いながらも実現を望んでできる事なら何でも積極的に率先して尽力しようと思っています。

 


演説おじさん  投稿者:るみたん  投稿日: 3月13日(月)14時32分4秒

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管理人様
 レスありがとうございます。
レクチャーが役に立たないことは既に裁判員制度での模擬裁判で証明されたと思っています。少しそれるかもしれませんが、近年社会人を受け入れる大学院が増えてきましたが、「学問だけで世間を知らん教員に教えてやる」と息巻いている社会人大学院生に手を焼いているという話をよく耳にします。裁判員でもここぞとばかりに裁判官の制止を振り切って演説を始める中高年の男性は少なくありません。そのような中で自己表現力が低下しているといわれている若年者が中高年に毅然と自己の意見を言えるでしょうか。一部の演説したがり屋の独壇場となるのは目に見えています。また、懇切丁寧なレクチャーなど何の役にも立たないのは私自身模擬裁判を拝見して実感しております。
 以前の投稿で少し触れたかと思いますが、一昨年の研究で「特定の犯罪に対する厳罰化傾向と体感治安に対する不安感には大きな相関がある」という研究があります。体感治安が低下する一方の現代において厳罰化傾向になるのは必至です。また、PTAパトロールなど民間の自警が監視社会への方向にいく一方、防犯カメラの設置には消極的で、非常にバランスの悪い「民主的コントロール」の中で期待したいのはやまやまですが、残念ながら現実的には現状維持の方がまだましだと思います。

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そうとばかりは・・・  投稿者:管理人  投稿日: 3月13日(月)12時50分47秒

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るみたん様、
確かに「逮捕」の瞬間から、世間の多くの人々はもう「有罪」を決め付けた対応をします。
ですが裁判員として選ばれた場合には、裁判の意味や証拠の重要性について1からレクチャーされることになっているはずです。
ですので多くの方々にとってはむしろ「目からうろこが落ちる」ようなお気持ちになるのではないか、その新鮮な感覚で審理に望むことになるのではないかと思います。

ただ問題は、頭で理解するのと、それが実際の事件でどのように適用されるかを体得するのとは別であることも事実で、裁判員の感覚は極端にぶれることになるかと思います。極端に寛大な判決が指向される場合と逆に極端に重い判決が指向される場合とがあると思うのです。
私は詳しくなくイメージだけで言わせていただくのですが、アメリカの陪審制はその傾向があるのではないでしょうか。その点、裁判員制度は裁判官とともに審理にかかわるのでそこまでの極端なぶれはないと思います。
しかし結局、そうなると初心者としての発言は大変な勇気が必要になりますし、結局、新鮮な感覚が反映されることもないまま裁判官主導で進められることになり、今までとあまり変わらないということになってしまうのではないかとも思えるのです。

 


世間の常識が問われる現代  投稿者:るみたん  投稿日: 3月13日(月)11時19分6秒

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皆様
 どうも私の意見が裁判員制度に批判的と思われているようですが、批判的ではなく恐れているのです。皆様のように関心の高い方ばかりが裁判員になっていただければ前向きに考えられるのでしょうが、これまでの事件報道などに見られるように「逮捕」の瞬間から世間の多くは「有罪」を前提に人物評価をしてしまう傾向があります。
 裁判員は法律知識のない素人のほうが良いのは本来の目的から言えばそうなのですが、であるならば報道されないような小さな事件や法定刑の軽い事件を予定するべきではないでしょうか。勿論、陪審員が社会内矯正が相当であると判断するには、社会がメンバーの一員として受け入れられることが条件になりますが。また、「世間の常識」から乖離しない判断が必要であるなら民事や少年審判、家事審判に関与するほうが安全な裁判員制度になると思っています。

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まさに陪審員の必須的条件  投稿者:ドン・ポンタ  投稿日: 3月13日(月)08時45分44秒

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正義一徹様
 一徹様のレス↓は、民主主義国家として求められる「国民の司法参加」の代表的制度である陪審制度(勿論、参審制度もあります)の陪審員の理想的なすがた、かたちを表現されたものと思います。まさに、それです。法律にズブの素人でよいのです。いや、むしろその方がベターとさえいるのです。初めから有罪心証を形成しやすい裁判官では困るのです。憲法は無罪推定の原則を保障しています。普通の常識さえ備えていればよいのです。できるだけいろんな職業の人が選任されることが理想的です。
 裁判員制度を紹介するには、どうしてもその下敷きになっている陪審・参審制度(わが国でも明治時代初期のころよりこの論議が始まっている)を先に紹介する必要があります。でも、一徹様が一言でそれを言い切ったといっても過言ではありません。
 24の目(12人)で事実認定をする。ヘンリー・フォンダ主演のモノクロ作品の名作「12人の怒れる男」が全てを描ききっています。アメリカのロー・スクールでは必ずといっていいほど、この作品を教材として見せるそうです。これが陪審員の最低かつ絶対条件です。それが彼等の専権事項であり裁判官も検察官も弁護人も一切口出しができません(無罪の評決に達したとき)。ここに極め付きともいわれるべき法構造の差が(参審・裁判員制度では、裁判官と協同して認定する)あるのです。
 陪審制は素人(事実認定を受け持つ・guilty 又は not guilty)で、プロ(その事実認定に基づき量刑を決める)の役割分担が明確に分かれているところにその特色がり、そこに社会の民意を見出す、つまり、『民の声は天の声』と世界でいわれているところにあります。事実認定を行うものと、量刑を決めるものが同一人物ではないと私が先日来書きこんだのが、このことです。陪審制の宣伝になってしまいましたが、この事実認定に裁判官の判断をあえて排除する思想、これがミソであり、まさにここにその思想的・民主的卓越性があると思っていただいてよろしいかと思います。
 遡れば、1215年の英国のジョン王時代のマグナ・カルタ大憲章以前にてその起源・歴史的・思想的背景を持ち、世界各国でむしろ「政治制度」として発達して今日にいたっているいるもので、アメリカがその代表的国家とみなされています。勿論、戦時下の陪審制ももとはといえばそこに由来するのですが、本来の陪審制ではなく最初から構造的欠陥を抱えたまま制度化された経緯があります。
 私が、拙い語り口で話しをしても仕切れるものではないので、わが国ではこの方面の第一人者と知られている学者の書いた新書版をお読みいただけると、陪審・裁判員制度との違いがとても平易な文章で簡潔・明確にかかれているのでご紹介したわけで、管理人様からご指摘のあったようなつもりは毛頭なかったということです。
 興味のある方にご紹介しておきます:
 http:www//baishin.com/は東京を中心とする会です。
 http:www//baishin.sakura.ne.jp/は大阪を中心とする会で東京にもその連絡口があります。
 その本を書いた学者は大阪の会にいらっしゃるようです。
 大阪は、元高裁判事で現職は弁護士の方とかも複数いるようですが、どちらもそれぞれ、一般市民・学者・学生・出版関係の方も参加しています。硬いというイメージはどちらにもありません。
HPが書き込みの不備で反転しないようです。お詫びします。

 


私も言いたい裁判員制度  投稿者:正義一徹  投稿日: 3月13日(月)05時24分30秒

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皆様
 所用で掲示板を見なかった間に裁判員制度のご意見で花が咲いておりますので、皆様のレスを具に読ませて頂いて感じたことと、私の意見をタイミング遅れも甚だしく言わせてていただきます。
 皆様そろって裁判員制度の導入には批判的見解をお持ちのようですが、私はもう少し希望的見解で、大いに期待するところがあると思っています。勿論、蓋を開けてみないと分からない不安材料は幾らでもあります。それは他の新制度や法令などにも言える共通の問題でしょう。
 新しい物を創作するのも、事業を起こすのも、何事も実行する前から完璧なものなど有り得ないのだから、やると決めた以上あれこれネガティブに考えずに積極的に実行すべきである。当たって砕けろと言うのではなく、当然綿密な計画の基に予想されるハード面の障害はすべて排除して、それでも残る不安より成功に寄せる期待の方が大きくなるようにソフト面を向上させる。・・・この法則はモノ造りの鉄則で私の理念です。
 法律に疎い人が裁判員に就くことを随分問題にされたご意見があり、もっと法律の知識を付けるべしとのご意見なれど、裁判員法(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律)に照らせば
 第十五条  次の各号のいずれかに該当する者は、裁判員の職務に就くことができない。
 となっており、該当する者として、国会議員、国務大臣、・・・・ 裁判官及び裁判官であった者、検察官及び検察官であった者、弁護士及び弁護士であった者、弁理士、司法書士、公証人、司法警察職員としての職務を行う者、裁判所の職員、法務省の職員、国家公安委員会委員及び都道府県公安委員会委員並びに警察職員、判事、判事補、検事又は弁護士となる資格を有する者、学校教育法に定める大学の学部、専攻科又は大学院の法律学の教授又は准教授、司法修習生、都道府県知事及び市町村の長、自衛官 となっている。これから言えることは、法の詳しい知識のある者や法律に携わった者(自衛官が該当するのは?特別国家公務員だから?)であることから裁判員はあまり法律に詳しくない方がベターではないでしょうか。私はこの法律を知る前から裁判員は法律にはズブの素人が最適と思っていました。その理由は、現在の刑事裁判は法律の専門家のみで審理され法律だけしか知識のない裁判官(毒舌で言えば世間知らずの司法機関)によって事実認定され罰条を当てはめ、刑の量定が為されることの危険性よりも、法には疎いが社会の常識をわきまえた名も無い一社会人が裁判官と合議体を形成することの有為性ができることの方が勝ると思うのです。
 ただもう一つ物足らないのは、公判前整理手続きに関与できないことです。証拠などが既にお膳立てされたテーブルで審理に参加しても、間違った料理が載っていたとしたらそれを基に吟味しても正しいものを引き出すことはできない。
 私の結論は、裁判員制度の導入が決まった以上、積極的に受け入れる意識が不可欠で、法律の知識を付けるのもさることながら、裁判員制度の正しい認識を普及させるのが急務であると思います。

 


私が懸念していること  投稿者:るみたん  投稿日: 3月13日(月)01時52分48秒

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皆様
 レスありがとうございます。
これまで学部生や院生、一般の方々とお話させていただいた経験から懸念していることがあります。
1最高裁、高裁、地裁は何を審理するところか知らない。
 つまり、地裁は事実審、高裁は法律審、最高裁は憲法審であることを知らない人があまりにも多いのです。したがって、最高裁に被告人席がないことや最高裁でも事実審が行われているとおもっているわけです。
2裁判官と裁判所の区別がついていない。
 裁判官は勝手に有罪無罪、量刑を決めていると思っている人が多いのです。犯行を行ったの真実であるかもしれないが、法廷では事実として認定されなければならないことが理解されていないように思います。また、量刑は裁判官が自由に決めていると思っている人が多いと思います。「当裁判所では・・・」を「裁判官の私は・・・」と勝手に読み替えていると思われる発言が多い。
 このようなことは一般の方だけではなく、心理学の研究者でも見られることです。したがって、管理人様がおっしゃる「貴重な体験」までいかず、単に「裁判所を見学してきた」程度でしかないように思います。また、守秘義務のある職にある者でさえ守られておらず、ひどい者になると堂々と電車の中でも話しているのです。何の教育、トレーニングを受けていない一般の方が守秘義務を果たせるか? 重圧に耐えられず精神的に不調をきたすか、喋ってしまうかのどちらかになってしまうかもしれません。このところの事件報道を見ておりますと、近隣の方が簡単にマスコミの取材に応じています。中には、かなり問題のある発言をするばかりか、取材されたくて報道陣の周りをうろつくものも少なくありません。このような状況を考えますと、良い方向の関心に向かうとは残念ながら思えません。これが私の懸念していることです。

ドン・ポンタ様
 メーガン法とスリーストライク法は法学部では教えていないのですか?! 英米法は必修ではないのですか? 何度かテレビで特集をやっていたので少なくとも関心をお持ちの方はご存知だと思っていました。もし、どなたも書込みなさらないようでしたら改めて説明を書きますが、ご専門の方、お詳しい方がいらっしゃればお願いしたいと思います。

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それを言ってはおしまいです。  投稿者:管理人  投稿日: 3月13日(月)01時15分1秒

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ドン・ポンタ様、
有意義な本のご紹介ありがとうございます。私も機会があったら是非拝読してみましょう。

ただ一言、言わせてください。
より専門的で正確な問題点を把握しようとすれば、それは専門家の著書にかなうはずはありません。しかし皆が皆、本を自ら手にとって読もうとするほど時間があるかどうか、あるいはそこまでの関心を最初から抱いているかというと疑問です。その点、掲示板は気軽に意見を書き込むというところにメリットがあるわけで、多くの方にとっては、少々稚拙でも掲示板のカキコミをご覧頂くことに意味はあると思っています。それで関心が深まれば、それこといろいろと更に調べてみようと思われるようになるかもしれません。
 また確かに議論が広がっていかないというのは残念なことですが、閲覧だけされている方は決して少なくないと思っています。
 あまり投げやりな感じを抱かせる言葉だけは回避していただけると嬉しいです。

 


一連のやりとりで感じることは  投稿者:ドン・ポンタ  投稿日: 3月12日(日)23時40分17秒

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るみたん様
 メーガン法とスリーストライク法については括弧がきでよかったのですが、こういう法律だという説明が欲しかったですね。独断ですが、法学部の学生でも英米法を履修していない限り当節の学生はほとんど知らないと思います。
 裁判員制度は、おっしゃる通り、導入してしまえばこんなものかというかたちで定着してしまうという見方、国民の声がいっているという過程が大切との立場、制度をスタートさせることで報道が活性化するだろうし関心を喚起できるのではとう考え方、あるいは、それ見たことかと元の制度が良いのだという見方など様々です。私に言わせれば、いずれも一長一短だと危惧しているのです。

管理人様
 管理人様の↓の最後のパラグラフについては、全く同感です。アメリカ並にとは言わないとしても教育効果という点も多分にあるわけですから、罰則規定はいかにも統治・支配的な官僚法学的思考がそのままで立法趣旨からみても賛成できません。もう少し工夫があってしかるべきだと思います。

 で、この裁判員制度については、広くいろんな方のご意見が得られない限り一部の投稿者で掲示板を占拠するのはいかがなものかと思います。私は、裁判員制度についてコンパクトでまとまっている市販本として学者が書いた平凡社新書からの「裁判員制度」を一読された方がはるかに有意義だと思う次第です。

 


裁判員制度  投稿者:管理人  投稿日: 3月12日(日)22時41分2秒

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るみたん様、
私も現状では裁判員制度は十分に機能しないだろうと思っています。これまで法律や裁判に全く関心のなかったような人たちが集まるわけですから、最初から多くを期待するのは無理だと思います。
せいぜい、裁判員を経験することによって、職業裁判官の心証の形成過程に無理がないかどうか、説得力が保てているかどうかを身近で感じることができるという程度しか望めないのではないかと思っています。しかも、その感じたことを素直にぶつけて職業裁判官や他の裁判員と討議できるというところにはとうてい行かず、おそらく裁判員一人一人がそれぞれに疑問や感想を抱いたまま、それが発言されたり議論になったりすることもないままに、流れていってしまうのではないかと思うのです。
 しかしそれでも最初はいいのかなという気もします。ただ裁判官の心証形成過程が全くのブラックボックスでよく分からなかったといいうところに風穴が空くのであれば、それはそれで意味はあると思います。判決理由という物がいかに長く立派な物であっても、実は心証を披露しているものでしかなく、そのような心証を抱くに至った経過について事細かに説明されているわけではないのです。判決理由を聞いても本当の判決の理由は分からないのです。それが裁判員として身近に接してみて分かるとしたら、それは大変な成果でしょう。
 せめてそういうように前向きに考えてみないことには・・・と思っています。

 しかし決定的な問題は、せっかく貴重な体験をした裁判員が、審理の後になっても、審理の過程での議論の状況などを広言してはいけないとされていることです。それでは最低限の裁判員制度の効用さえ生かせないということになってしまいます。

 


問題が多すぎて・・・  投稿者:るみたん  投稿日: 3月12日(日)22時00分44秒

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ドン・ポンタ様
 レスありがとうございます。裁判員制度に関しては問題が多すぎて、掲示板ではそれぞれ伝えきれない部分があると思います。こういっては身も蓋もないと言われるかもしれませんが、スタートすればまだ導入すべきではなかったことが明らかになると思っています。せっかく学校では社会を教え、大学でも憲法は教養科目に位置づけられているのに、研究者や実務家になってしまうと自己の専門領域にしか関心のない者も多く、議論するのもばかばかしくなるときがあります。そのような方にとりあえずはモノを言っていこうと私は思っています。
 本線とはそれてしまいますが、マスコミの悪影響もあると私は思っています。とかく米国の制度を引き合いにして番組で扱ったりしていますが、全く成り立ちの違う国の制度や法律のトピックだけをセンセーショナルに伝えています。私個人的には、陪審員の人数をとやかくいうよりは、大陪審と小陪審の違いや、全ての裁判が陪審制を採用するわけではないことや正しい使用頻度などを伝えて欲しいと思いますし、メーガン法に相当する制度の導入をあおるようなメディアがありますが、スリーストライク法の方がまだ日本ではなじみやすいと思っています。
 裁判員制度については多くの専門家が取り組んでおられると思いますが、当面の私の活動としては、もっとも犯罪被害者の近くで支援にあたるカウンセラーのような心理職の法制度の無知さ加減が一番当事者に不利益を与えていることを検証することで認識を少しでも高めていただけたらと思っています。
 なんだかとりとめのない話になってしまってごめんなさい。

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難しい問題です  投稿者:ドン・ポンタ  投稿日: 3月12日(日)19時08分29秒

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るみたん様
 「模擬裁判員制度」のタイトルでのご意見は、いちいちもっともだと思っています。正当な理由だといえるものです。ただ、私なりの回答もあるのですがそれをここで披露するには紙幅の関係から躊躇せざるをえません。すでに、先行する学説や論考ならびに意見などが錯綜していることもあり、また、管理人さまの考えも考慮する必要性もあるやに思われるからです。
 答えにはなりませんが↓のカキコの一端に私なりのニュアンスを汲みとっていただければ幸いです。意見にはなりませんがあえて追加します。
 2001年6月13日の朝刊第一面に「司法制度改革審議会」の「意見書」を小泉首相が受け取っている記事が掲載されています。裁判員制度の名前が初めて表示され、以降の制度設計がその意見書の内容通りにできたのかどうかも実は定かではないのです。その審議会(メンバーは何故か陪審員の定数と同じ12名でした。この中、ただ一人市民として選ばれたのは女性で故人になられた方です)の意見書の内容が現在の裁判員法のかたちになったのは、その後の『裁判員制度・刑事検討会』(メンバーは、これもまた12名)です。両会とも人選が問題視されたりもしました。私は議員会館で市民団体が主催した超党派議院向けの裁判員制度についての理解を深める集会にも主催者側の一人として参加したこともありました。でも、国会での議論は結果的には深まることもなく(裁判員の数を何名にするかという点を除いては)成立してしまったのです。
 先日、新聞社から送られてきた新聞(2月15日付)に最高裁のうった全紙広告、“裁判員制度全国フォーラムin東京”で記事内容を読んだ感想は、るみたん様のご指摘の内容などが既に制度と発足させたということで、どこにもなくこの制度への批判が見当たらないことへの疑問です。現行の裁判制度(特に刑事司法制度)の実情について、個人的には、日本の選挙人口である約1億200万人の中どれだけの人がどのくらいの認識レベルにあるかということです。恐らく、99%の人たちにはその実情はご存知ないだろうと想像する次第です。つまり、お上のやることだからいいことなんだ、間違いはないのだというイメージが先行した露出になっています。
 現行の裁判員制度は残念ながら、審議会・検討会・国会という手続き面での形式的順序を経由したかたちはとっていても、市民が実質的に参加する国民的議論を経ていないのは明確・明白な事実です。制度的に内在する問題点が解決されていないこと、それはすでに指摘されているのですが、世論として浮上しきれないでいるのです。
 私が知っている弁護士のみなさんも、2005年5月の導入までに何ができるかということで真剣に取り組んでいます。

 


掲示板では誤解は生じやすい  投稿者:ドン・ポンタ  投稿日: 3月12日(日)09時55分13秒

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 思っていることと表現上での齟齬が生じやすいので気をつけているのですが、念のために追加させていただきます。
 1・民主的なコントロールという意味は旧ドイツのヒトラー政権下やわが国の戦前における戦争追及のための大政翼賛的な思想をイメージしているものではありません。
 司法については、近代国家では民事であれ刑事であれ、公的サンクションを行使できる唯一の最大の権力機関であるがゆえにこそ、その権力行使を何よりも市民社会の厳格なコントロールのもとに置くことが民主主義の要請となるので、市民社会(主権者国民という観点からみれば国民社会)の代表として市民が裁判(司法権力)そのものの構成員となる陪審・参審その他の裁判参加制度(現時点では裁判員制度)は、司法権力の民主的コントロールの典型である、という意味です。そういう観点からは、裁判官の選任、解任その他への参加も同様です。
 この最後の部分では、最高裁の国民審査も建前は民主的コントロールのかたちがとられていても、その実質は形骸化されていることはつとに知られています。また、特に裁判官の独立と自由の保障が重要(残念ながら実態はそうではない)でもあることも管理人さまであれば十分察しがつかれることだと思います。
 民主的コントロールについては法社会学的にはさらに付け加えることが可能ですが、以上の説明でみなさんにもおわかりいただけたことと思われます。
 2.現行憲法下における民主主義では参審・陪審あるいは裁判員制度などの司法への直接的制度的参加の実現が必要ですが、同時に「松山事件」(広津和郎が裁判批判を展開した)や「家永教科書裁判」などをはじめとする冤罪事件裁判や公害裁判の例のように、裁判批判、裁判運動、裁判闘争という優れた間接的・非制度的司法参加という形態が生み出されてきたわけです。名もない一市民のエネルギーが民主主義発展へのダイイナミズムの中核になることを期待したいものです。
 閉塞的な司法を活性化させる一つの手段として大衆裁判運動が盛んになることは、「お上」という思想的呪縛からあるいは「国民性」論から早く抜け出したい、という個人的な思いもあります。個人的にといいましたが、私も大岡越前守や遠山の金さんの奉行所ストーリーは心情的には好きですが、建築学的にみるとお白州と現在の裁判所構造が何故かぴったりと一致していて、問題があると思います。
 よく映画にでてくるアメリカの陪審法廷を図に画くとその機能と構造が日本とは一目瞭然に違うことが見てとれます。被告人、証人、検察官、弁護人は裁判官ではなく陪審席に向かって弁論・答弁を展開し、裁判官はあくまでも訴訟の展開を円滑に進めるための脇役に徹する(近代国家における裁判制度では、このことを訴訟指揮と呼ぶ)にすぎないのです。先回も述べたように、事実認定と有罪・無罪を同一人物が行うということ、この認識がわが国の最高裁、法務省、よく引き合いに出される有識者による「審議会」などをはじめとするひとたちの支配的な思想であると思われます。
 「刑事司法手続きは各国の歴史と“国民性”を背景としており、これを度外視した『国際的基準』を尺度に議論すべきではない」として代用監獄の存続を提言したのも、この有識者会議なるものです。これには、正直、私は賛成しかねます。どだい、国民性とは何ぞや、がそもそも大疑問です。これを理由・根拠とした結論が世間ではまかりとおっている間は、その国の民度云々が問われても仕方がないのはないでしょうか。
 と、ここまで話しを引っ張ってきました。アメリカの陪審制の例を出しましたが、決してこれを賛美しているわけではないことを更に付け加えておきます。参審・陪審制は、それぞれに長所・短所もありますが、その思想的背景から民主主義の要請を現実の社会が具現した典型的な例としての評価は世界的に確立されていると見て間違いのないところでしょう。では、裁判員制度はどうか、というのが2009年5月までの課題ということになるのです。

 


誤解されるといけないので。。  投稿者:管理人  投稿日: 3月12日(日)01時01分48秒

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↓のようにレスして、誤解されるか心配になりましたので、更に補足します。
裁判制度についてあまりダイレクトに民主的コントロールが及ぶことにされていると危険な場合があると指摘しました。
しかしもちろん、裁判の利用者としては「お上のやること」、「法律なんて分からない」等と無関心を決め込むのではなく、常に関心を持ち、司法が本当に果たすべき役割を果たしているか、見守り、時には評価し、時には批判するという態度で接するようになって欲しいと思います。ドン・ポンタ様の言う「大衆的裁判運動」というのがどういう運動をイメージされておられるのか、よくは分かりませんが、多くの人が裁判に関心を持ち見守る必要があるという意味でおっしゃっているのでしょうし、それはその通り間違いないことだと思います。

たとえて言えば、サッカーのサポーターのようであって欲しいと言うことです。プレーヤーはサポーターの多い少ないで試合に影響されてはなりません。仮にサポーターがいないアウェー状態でもアスリートとして全力を尽くしてもらわなければなりません。裁判も同じで、世論に左右されてはいけないということです。
しかしサポーターは邪魔な存在か?とんでもありません。全くプレーには関係しないのですが、12番目の選手といわれています。サポーターの浴びせるブーイングや拍手がプレーヤーを成長させるのです。裁判も同じです。

 


気をつけたい「民主的コントロール」  投稿者:管理人  投稿日: 3月12日(日)00時34分20秒

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私は、いつも思うのですが、「民主的コントロール」という言葉は、耳障りがよろしいのですが、使い方を誤ると道を踏み外す危険な一面をも併せ持っているということを忘れてはいけないと思います。
かつてドイツでナチスが台頭しえたのも、最初から強引に武力で国民を威圧して権力を強奪したというわけではありませんでした。他ならぬ民主的な選挙によって圧倒的な国民の支持を得て台頭しえたのです。日本についてみても、今から見れば明らかに無謀なアメリカなどとの戦争は、当時の国民の圧倒的多数に支持されていたのです。反対でも叫ぼうものなら非国民呼ばわりされたと聞きます。もちろんそれは正しい情報が伝えられなかったために世論がミスリードされたということであるのは確かなのですが、それはともかく「民主的コントロール」という言葉に酔いしれると危険であるということはやはり忘れてはいけないと思います。
さて裁判について言えば、全く民主的コントロールの余地がないというのも困りものであるのは確かですが、だからといってダイレクトにあからさまに「民主的コントロール」がされるという制度設計されてもまた危険です。憲法の定める個人の尊重、基本的人権の尊重の見地から保護されるべき立場の人の権利も、多数者の圧倒的意見の元には封殺されるかもしれないのです。もともと司法の役割は、多数者の利益や意見に時には反することがあったとしても、純粋に法的に守られるべき価値、利益を擁護、救済することにあります。常に民主的支配の元で裁判が進められるのが無条件によいのだとしたら、行政府や国会議員が裁判したってよいわけです。ですから、裁判所はあまり過度に民主的コントロールにさらされるべきではないし、従ってまた大衆運動の類にあまり過敏になっていてもいけないと思っています。
 しかし、もちろん、それ故にこそ、裁判官は、人の影響を受けるのではなく自ら率先して、自主的に視野を広くして、社会の動きや世間の動向に気を配っていなければならないということでもあると思います。
 NHKについても、私は同様の枠組みで考えてます。テレビは第四の権力といわれるほど社会的に影響があります。カラスについても、テレビの力で視聴者に対して、白鷺であると信じ込ませることも可能なほどの力があるのです。それだけにやっぱり「民主的コントロール」のあり方は慎重でなければならず、番組内容、編成についてダイレクトに「民主的コントロール」が及ぶとすることは回避すべきです。民主的コントロールの結果、カラスが白鷺ということにされてはいけないのです。人事権、予算など周辺の問題について民主的コントロールが及んでいれば、それでよいのではないかと思います。
 受信料の不払い問題は、わたしはNHKの体質の善し悪しについての問題意識よりも、むしろ、見る見ないにかかわらず、常に均一の負担を強いられることに対する不条理を感じている人が多いからだと思っています。
 前にも述べたことがあると思うのですが、私は、NHKから「公共放送」などという重たい看板を取り外させて、スカパーやWOWOWと同じような有料放送にすれば、自ずと問題は解決すると思っています。

 


専門家ですら  投稿者:るみたん  投稿日: 3月12日(日)00時29分57秒

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ドン・ポンタ様
 すっかり遅くなってしまってごめんなさい。裁判員制度にも関わってくることだと思いますので、少し皆様と議論できたらなと思います。

〜〜あるシンポジウムにて〜〜〜
 先月、女性に対する暴力防止についてのシンポジウムに参加しました。プログラムの最後にシンポジスト、パネリスト、フロアともに質疑応答の時間があったのですが、加害防止のプログラム開発など、かなり積極的な活動をしておられる専門家の発言です。
 「僕、DV裁判てみたことないんですけど。」
パネリスト、シンポジスト一同唖然・・・中には法学部の学生さんもいらしたのですが専門家なのに・・・??? コメントを求められた弁護士は時間が迫っていたこともあり、離婚後の生活費など、地裁と家裁を使い分けるという方法もあります、といたって弁護士の実務的なコメントに終始し、最後に一言小声で「刑事に関しては傷害罪です」と一言。
 日常的に被害者や弁護士と接する心理の専門家ですらあきれるほどの知識しか持ち合わせていないのです。また臨床心理士試験には、倫理、法規に関する問題が出題されるのですが、大学院で行っているのは試験対策であり、本当に必要な学習は行っていません。教員自体が「被告と被告人」「裁判例と判例」の違いも知らなかったようですし、通称「児童虐待防止法」に罰則規定がないこと、それが何を意味するのか(つまり立法目的)すら知らない心理学の教員がほとんどです。
 つまり、多くの心理職は特別法であれ刑法であれ「懲役・・年に処する」という刑罰が条文には示されていると思っている方も多いし、一度も裁判所にいったことがない専門家も多いのです。また、刑事法の中で使用される「責任能力」をしらない心理職は、精神鑑定は裁判所の判決より優先しなければならない、また、そうならない判決はおかしいと豪語する心理職も多いのです。
 弁護士が非現実的な依頼人に手を焼くこともあるかと思いますが、心理職は非現実的か現実的かの判断もできないのに、マニュアルどおりに何でも「そうですね、そのくらいの金額(または懲役・・年)じゃなきゃ割に合いませんね」と無責任な支持をしてしまうのです。それが後に刑事裁判で報われぬ憎しみであることを知ったとき・・・民事裁判や調停で非現実的な金額だと知ったとき・・・心理職はもっとも質の悪い加害者になってしまうのです。

〜〜模擬裁判員制度〜〜〜
 以前、模擬裁判員制度にうかがったことがあるのですが、モデルケースについて議論をし、量刑判断をするというときに、多くの方に見られた現象です。
「私のときもそうだったから」「人相からしてきっとそうよ」「可哀想だから私は無罪にしてあげたい」このような発言が目立ち、およそ議論とは程遠いものでした。勿論、必要最低限の説示はあったにもかかわらず個人的な感情でしか発言できず、一人暴走する裁判員への裁判官(このときは実際に裁判官が参加なさっていました)の制止も意味はありませんでした。
 このような状況で裁判員制度を導入するというのは無謀としか言いようがないと私は思っています。知識を持ち、訓練を受けた検察官や裁判官でも誤判や冤罪がある現状を考えると、「うそついてそうだから」と有罪にされてはたまりません。日本でも陪審員制度が存在すること、またそれが廃止されたわけではないこともそうですが、それ以前に尊属殺人や天皇に対する不敬罪などが刑法典から削除されたのが平成7年になってからだということすら知らない方が多いと思います。
 将来、裁判員制度を導入するのでそれに先立って、公教育で法教育のカリキュラムを導入するというなら話はわかりますが、いきなり制度だけスタートさせるというのは無謀でしかないと思っています。私が言う土壌とは、一定の知識や訓練を一般の方にも義務付け、裁判員が私的感情で発言したり、私事を引き合いに出したりすることがないような状況で議論できること、そして、量刑にまで日本の場合は関わるわけですから出所した者を社会の一員として受け入れることができること、さらに被害者も疎外されることなく身近な人がちゃんと支援者になれること、これらが裁判員制度導入の土壌、つまり前提条件だと思うのです。その土壌が育っていなければ単に市民を参加させるだけの裁判員制度は魔女狩りになってしまう危険があると思います。
 また長くなってしまって申し訳ありません。言葉の足りないところはまた折に触れ、申し上げたいと思います。

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裁判官物語  投稿者:ドン・ポンタ  投稿日: 3月11日(土)23時42分14秒

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正義一徹様
 レスをありがとうございます。裁判官については戦後初代の最高栽長官の三淵忠彦が次ぎのように述べています。「(裁判官)は法律の一隅にうずくまっていてはならず、眼界を広くし、視野を遠くし、政治のあり方、社会の動き、世態の変遷、人心の向き様に深甚の注意を払って、これに応ずるだけの識見、力量を養わねばなりませぬ。」。戦後の裁判所(官)の歴史をたどればおのずと現在の裁判所のあり方が見えてくるのですが、それはいずれ折りにふれてということにしましょう。
 裁判というものは問題の性質が特定もしくは不特定の多数の国民の生活利益に密着するものであるので必然的に大衆的裁判運動と結びつかねばならないと言われています。各種公害・薬害問題・医療過誤・生活環境及び自然環境を破壊する開発問題・消費者問題・自衛隊・米軍の基地、軍事問題、勿論、誤判冤罪問題も含めて、いずれも企業及び国の責任を問う訴訟であり、これらを通して新しい権利(環境権、日照権、知る権利、プライバシー権など生成途上の権利)が生み出されてきました。
 端的にいえば、裁判においてもその歴史を動かすのは、最終的には、名もない地位もない一人の民衆の努力である、ということを私たちは銘記すべきではありませんか。

 


先延ばしにしたなりの代償  投稿者:VODKA  投稿日: 3月11日(土)23時20分24秒

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ぷり様 おひさしぶりです。手続きの方、なかなか進まないもどかしさが伝わってきます。

管理人様 仮定の話で申し訳ないのですが、婚姻費用は調停申立時に遡って支払を命じられることが多いとのことですが、もしそれでも支払わなかった場合、離婚の財産分与等の手続きでまとめて精算して欲しいと、財産分与時に裁判所に主張する事も出来るのでしょうか?あくまで一般論として。

 


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